苦さもぜんぶ飲み込んで【草木萌え動く】
◆雨水 3月1日~3月4日
◆末侯:草木萌え動く(そうもくもえうごく)
◆侯の野菜:菜花
春が近づいてくると、八百屋さんやスーパーの野菜コーナーだけでなく、道端でも見ることの多くなる菜の花。綺麗な鮮やかな緑色はもちろん、花が咲いた後の黄色が目にとても嬉しく春が来たなあと感じます。食用の場合はつぼみの段階で食べることが多いですが、ビタミンCや鉄分など栄養も豊富なんだとか。
◆侯の野菜:はまぐり
今回の期間中には「桃の節句」も入ってきます。定番メニューのひとつはまぐりのお吸い物はひな祭りはもちろんお祝いごとには欠かせないのではないでしょうか。はまぐりは殻のかみ合わせが対のもの以外は合わないことから夫婦の象徴として扱われてきたそうです。
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苦さもぜんぶ飲み込んで
ひなまつりだ!とわくわくするような年齢は過ぎてしまったけれど、やっぱりこの時期になると、家族でわいわいしていた楽しい思い出がある。
クリスマスが終わって、お正月もだいぶ前に過ぎ、なんとなくちょっと豪華なもの食べたいよね、みたいなタイミングでやってくるひなまつりだからか、料理をする母もちょこちょこ手伝うわたしもほんの少し、わくわくしていたのだと思う。
メニューはちらし寿司に、はまぐりのお吸い物、ちょっとしたチキンやケーキやひなあられなんかも用意していた記憶がある。
どれもこれもだいすきなメニューだったが、ひとつだけどうしても食べたくないものがあった。
「菜の花のおひたし」だ。
季節もので、めったに食卓に出てくるものではない。
今日を乗り越えてしまえばまた一年間会うこともない。
それはわかっている。
だけど、どうしてもあの苦みだけは許せなくて、「栄養があるから」とノルマのように小皿に盛られたそれを、味がわからぬようにたっぷりマヨネーズをつけて飲み込んでいた。
苦み、というのはどのタイミングで克服したのだろうか。
いつの間にやらあんなに苦手だと思っていた「苦い」という味をそれが美味しいんじゃないか、と思うようになっていった。
春の菜の花に、夏のゴーヤ。
今ではどちらも「食べないと季節を感じられないよねー」とまで言ってのける次第だ。
思えば初めてビールを飲んだ時も、すっきりはするけどたくさん飲むもんじゃないな、と思っていたのに今ではビールだけしか飲まないときもある。
ビールを美味しく感じるようになったころ、きっと菜の花も美味しくなってきたのだと思う。
それはいったいいつ、どのタイミングだったのだろうか。
きっとこれから先もきっかけなんて思い出せないまま、毎年春になるときゅっと口いっぱいに広がる苦みを求めて菜の花を食べるんだと思う。
ロマンチックを生み出す魔法【霞始めて靆く】
霞始めて靆く
◆雨水 2月24日~2月28日
◆次侯:霞始めて靆く(かすみはじめてたなびく)
◆侯の野菜:辛子菜
からしのような味と香りのするやさいです。春の野菜というのは菜の花やふきのとうもそうかな、と思いますが、ちょっぴりの苦みを一緒に味わう野菜が多いような気がしています。でも、おひたしにしてきゅっと冷やした日本酒と一緒にいただくと、思わず口元がゆるゆると喜んでしまいます。
◆侯の行事:野焼き
春先、風のない日に枯草を焼き払う行事です。これをすることによって草の成長を促すことができるんですって。京都や山口などで行われる春の風物詩なんだそうですが、わたしはまだ一度も見たことがないので、いつか見てみたいなあと思います。
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ロマンチックを生み出す魔法
霞(かすみ)と霧(きり)の違いってなんだかわかりますか?
ぱっと聞かれてあれこれ考えて「なんとなく霞のほうが儚い感じする……」とあやふやに思ったけれど、きちんと調べてみたら、実はどちらも同じ現象だということがわかった。
厳密に言えば気象学的には空気中の水分濃度によって分けられてもいるのだけど、現象としては同じ。
ではどう呼び分けているかというとなんと季節によって違うというのだから、「へえ!」と思わず声に出してしまう。
春のそれは霞、秋は霧、と言うように季語でしっかり分けられているのだ。
さらに言い方も変わっていて、「たちのぼる」を使うのは霧だけど、「たなびく」は霞にしか使わない。
現象としてはほぼ同じものなのに、使う漢字も言葉も変わってくるだなんて、なんて面白いんだろうと思った。
更に近いのが靄(もや)。
これは季語とはあまり関係がないけれど、現象としては似ている。
ただ、と言うと語弊があるかもしれないけれど空気中の水蒸気が水滴になる、という現象なのに、こんなに言葉のバリエーションがあると言うのには、きっと当時は何か理由があったんだろうなあと思いを馳せるだけでわくわくしてしまう。
そういえば、古代の絵巻には霞みがかった絵が描かれていることがお約束だ。これは「もやり霞」というれっきとした当時の手法のひとつで、遠近差を表したり、余白的効果をもたらしているのだそうけど、この霞があることでなんだか妖しげな空気を醸し出しているような気がする。
霧の都、といえばロンドンだが、これは空気が悪くてスモッグが蔓延しているという理由ではあるけれど、街全体が霧がかっていることで、何が起きるかわからないドキドキ感がより演出されているのではないだろうか。
イギリスといえばシャーロック・ホームズやハリー・ポッターに代表されるようにミステリーやファンタジーが多く生まれていることでも有名だが、どちらもちょっとした不思議を読者にもたらしてくれるもので、これも霧の都ゆえなのかもしれない。
視界が曇っている、ということはもしかしたら何かを生み出すロマンチック要素なのかもしれない。
何がロマンチックって、これらの呼び方は夜になると「朧(おぼろ)」という呼び方に変わることだ。
可能性は無限大【4.土脈潤い起こる】
土脈潤い起こる
◆雨水 2月19日~2月23日
◆初侯:土脈潤い起こる(どみゃくうるおいおこる)
◆侯のことば:獺魚を祭る(かわうそうおをまつる)
元々、雨水の初侯の名前は「獺魚祭」でした。かわうそは魚をよく捕まえるけれど、川辺などに魚を並べてなかなか食べようとしないのだそうです。その並べている姿がお供え物をしている姿のようだということでその季節の名前が生まれたそうです。「獺祭」といえばみんなだいすきなお酒!という印象しかありませんでしたけど、そこが由来なんだと知ることが出来ました。
◆侯の野菜:春キャベツ。
キャベツの旬は年に三回ありますが、そのうち2月~6月にかけて収穫されるものが春キャベツだと呼ばれています。冬のぱきっとした風味がたっぷり感じられるキャベツも美味しいですけど、春キャベツのふんわり柔らかい甘みもたまらないですよね。
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可能性は無限大
節約したいときの野菜の味方といえば「もやし」が王様だと思うけれど、キャベツもなかなかの位置にいるのではないかな、と思っている。
今年の冬は気軽に…とは少し言い難いかもしれないけれど、比較的ほかの野菜よりも安価でたっぷりまるまる買うことが出来る。
そして使い方は無限大だ。
葉の柔らかい部分はざく切りにして炒めるだけでも美味しいし、ひき肉と玉ねぎでつくったお団子をくるんっと巻いて煮込んでスープごと口に入れて全部の旨味をいっぺんに味わって口のなかで幸せをひとりじめをしても許してほしい。
真ん中くらいの芯と葉の混ざり合った部分は一口大に切って、塩昆布とちょっぴりのごま油とよく揉むこめば、おつまみとしても箸休めとしても完璧になる。
芯の固い部分は少しだけ茹でてスティック状にしたら、味噌をベースにしたソースにつけて食べれば食感もまるごと楽しむことが出来る。
もちろん、部位なんか気にしないで一枚ずつはがして豚肉と交互に並べて蒸してポン酢をさっとかけたらもうそれだけで最高の贅沢を味わうことが出来る。
…ほんのちょっと考えただけで、キャベツを使った料理なんて山のように出てくる。
冬でもいつでもキャベツは美味しいけれど、それでも余すことなくまるごと美味しいのは春キャベツなのかなと思っている。
ふわふわとした柔らかい甘みは余計な調理をせずにそのまま食すことが、寒い冬を乗り越えて美味しい春を迎えてくれた野菜に対する最大の敬意の表し方のような気がしている。
冬は寒くて台所に立つことが億劫で料理も出来る限り簡単なものを、と、なってしまいがちだけれどもう少しあたたかくなったら、キャベツやほかにも旬を迎える春の野菜たちをたっぷり使ったご飯を作ろうかな。
じっと糸を垂らして待てる大人になりたい【3.魚氷に上る】
魚氷に上る
◆立春 2月14日~2月18日
◆末侯:魚氷に上る(うおこおりにのぼる)
◆侯のことば:春寒(はるさむ)
暦の上では春が来たといってもまだまだ寒いこの季節。そのことをあらわす言葉として「春寒」「余寒」と呼びます。本当はもう春なのだからこれは名残なんだから、というとても前向きな言葉。
◆侯の鳥:めじろ
前回のうぐいすと同じように春を代表する鳥のように思っています。綺麗なきみどり色にぷくっとした白でふちどられた目がかわいいですよね。小さいこの鳥の舌先はブラシのようになっていて花の蜜を器用に取ることが出来るんだとか。今度チャンスがあったら見てみたいなあ。
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じっと糸を垂らして待てる大人になりたい
なんにもせずぼーーっとしていることが苦手なこどもだった。
せっかち、というわけではない気がする。
何もせずにじっとしていると、もっと楽しい何かを見逃してしまっているような気がして妙にそわそわしてしまった。
じっと座っているなら本を読みたい、音楽が聴きたい、おしゃべりしたい、眠りたい。
いろんなことを妄想したり、想像したり、創造することはだいすきだったけどそれもじっと考えているのではなくて、絵だったり字だったりなにかしらのかたちになる方法でしか頭のなかのいろいろを広げられなかった。
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小さいころ、よく親に連れられてキャンプをしていた。
さんざんはしゃいで笑った夜とは打って変わって、朝になるとしんとした空気のなかで大人たちが釣竿をもってじっと川辺に座っていることが不思議だった。
きっと魚を釣るために竿を動かしてみたり、流れを読んだりいろいろなことをしていたのだとは思う。
だけど遠くから見る背中は全く動いていないように見えて、ただ長い竿をもって佇んでいるだけだと思っていた。
なんで何にもしないでただ座っていられるの?
座っているときは何をしているの?
おしゃべりしないの?
ねえねえと話しかけると「大きな声を出すと魚が逃げちゃうよ」とたしなめられる。
「ふーん」と拗ねて、ひとりで走り回って、だけどみんなが釣ってきてくれた魚はしっかり食べるようなそんな落ち着きのないこどもだった。
わたしも大きくなったら朝は川に糸を垂らしてじっと過ごすようになるのかな、となんとなく思っていた。
その姿がかっこいいなとぼんやり憧れていたのだと思う。
結局、中学生になるころにはキャンプにはあまり行かなくなり、そのまますっかり遠ざかってしまったので、じっと立ち尽くす見た目だけでもかっこいい大人になれるチャンスは逃してしまったのだけど。
だから、いまでも不思議な、こどものときの印象だけが残っている。
じっと糸を垂らして魚が釣れるのを待っているあいだ、彼らはいったいどんなことを考えていたのだろうか。
寝る前のぼんやりした時間の考えごとですら、全部紙に書いておけたらいいのに、と思ってしまうくらい何にもしない時間がいまでも苦手なわたしは、どれだけ年を重ねても「魚釣り」は苦手な気がする。
憧れのたべもの【2.黄鶯睍睆く】
黄鶯睍睆く
◆立春 2月9日~2月13日
◆次侯:黄鶯睍睆く(うぐいすなく)
◆侯のことば:鶯(うぐいす)
「ホーホケキョ」と聞くと「ああ春がやってくるなあ」と感じる人も多いのではないでしょうか。早春に鳴くことも多きことから『春告鳥』とも呼ばれているそうです。
◆侯の魚:鰊(ニシン)。
こちらもうぐいすと同じく『春告魚』と呼ばれる魚です。甘辛い味付けで良く煮込まれたものを食べる機会が多いので、あまり季節感を感じることがなく春の魚だと言うことを今回初めて知りました。
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憧れのたべもの
大人になったら…
あの場所に行ったら…
そんな風にいつかいつかと夢を抱いてしまっている「食べもの」ってみなさんにはあるでしょうか?
わたしにとってそれはまさしく「にしんそば」というものでした。
まだわたしが存在すら知らなったころ、突然「にしんそば」ラッシュに見舞われたことがあった。
もう名前も思い出せないけれど、そのときに読んでいた小説、漫画それぞれに出てきて「一体なんなんだろう」となったのがわたしとそれとの出会いだった。
にしんそば、と言えば京都のたべものである。
「京都」へは小学生のころから並々ならぬ憧れを抱いていたから、京都を舞台にした本は意識的にしろ、無意識的にしろ手に取っていたのだけど、それにしても連続で出てこられると気になる。
気になって仕方なかった。
いまはどちらも好きだけれど小さいころは圧倒的なうどん派だったわたし。
かけそばと言えば、天ぷらや鶏肉が乗っている程度の簡単な発想しか出来なかったので、大きな魚がどかんっと乗っかっているにしんそばのビジュアルはなかなか想像がつきにくく、だからこそ「気になるアイツ」であり続けた。
食べたらどんな味がするんだろう。
魚とそばって合うんだろうか。
きっと東京でも食べることは出来ると思う。
だけど、どうしても絶対になにがあっても「にしんそば」とのはじめましては京都で迎えなければならない、と思い込んで出会ってから5年以上かたくなにチャンスを拒みつづけた。
そしてはたちを過ぎたころ、初めて京都に一人旅行した。
もちろんお昼ご飯には満を持しての「にしんそば」である。それも食べる場所はにしんそばの始まりの場所ともいえる有名店「松葉」さん。
京都の繁華街、四条大橋を眺めながらあんなに焦がれたにしんそばを食べるだなんて出会いの場所としてこれ以上ないように思えた。
朝ごはんを軽くしたおかげで、胃袋の空き具合も完璧だった。
今まで本のなかでしか会えなかった「にしんそば」とのはじめましては、やっぱりちょっとだけ緊張した。
しかし、タイミングが良かったのか注文してからあっという間にやってきてしまったのであっさりと初対面を迎えたのだった。
器いっぱいに横たわるニシンにお蕎麦がそっと上に重なっていて、合間から見える部分は照りでつやつやしていた。
おそるおそる食べてみると、思っていたよりもずっとずっと甘くて柔らかくて、もっと魚魚しいのかとびびっていたわたしはちょっとびっくりした。
ほぐした甘い身とあっさりしたお蕎麦を一緒に食べると、口のなかでちょうどよく混ざり合ってなんだかふわふわした優しさに包まれた気がした。
念願かなってやっと食べることのできたにしんそばは、たくさんたくさん期待してしまったそれをきちんと乗り越えてやってきてくれたのだ。
未だに本のなかに出てきた食べ物に憧れることってよくあるけれど、ここまで恋い焦がれた食べ物っていまぱっと思いつくことが出来ないかもしれない。
海いっぱいのオレンジゼリーだとか、まずそうにおざなりに食べられている薄いハムとチーズが挟まったサンドウィッチだとか、フライパンにまるまる乗った黄色いホットケーキとか、そういうのとはまたちょっと違うような気がしている。
にしんそばを知って、憧れて、食べに行って、口に入れて美味しい!って思ったあの瞬間、わたしの恋は実ったのだ。
春のかおり【1.東風凍を解く】
東風凍を解く
◆立春 2月4日~2月8日
◆初侯:東風凍を解く(とうふうこおりをとく)
◆侯のことば:東風。
東風とは春風のこと。「春風」というと南から吹く暖かい風なのになぜ「東風」というのかというと、七十二侯が元々中国からやってきた暦であることにさかのぼります。中国で使われる陰陽五行の思想で春は「東」を司ることからきているのだとか。
◆侯の野菜:ふきのとう。
春の山菜としても有名なふきのとう。ゆでたものをすりつぶして味噌や砂糖みりんとまぜた「蕗みそ」が美味しいですよね。
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旧暦では2月4日、この日から新しい一年が始まります。
今日から七十二侯それぞれの言葉や旬のもののなかからちょっとしたひとりごとを綴っていってみようかと思います。
ゆるりと更新してゆきますので、どうかゆるりとお付き合いいただければと思います。
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春のかおり
香りって特別だと思う。
五感のなかで多分わたしは「嗅覚」がいちばん敏感だ。
だから「いいな」と思う香りの人をすきになることも多いし、特別になった人の香りはなかなか忘れられなかったりして、それが原因で嬉しくなったり、少しだけ切なくなったりもする。
誰かのおうちにお邪魔するときも、一歩入った瞬間に漂ってくるその人だけのおうちの香りに包まれることも距離が縮まったように感じられてすきだ。
そんな香りフェチのわたしだけど、季節の変わり目に感じる「新しい季節の香り」はやはり格別だなと毎回思う。
夏は太陽の少し焦げるような香りや、プールの塩素の香り。
金木犀が香ってくると「秋が来たなあ」と感じるし、そのあとに踏みつぶされた銀杏のなんとも言えない香りでもうすぐ冬が来るな、と思う。
枯葉の落ちて踏まれたあとの葉の香りや、ツンとしたとげのある冷たさが玄関の扉を開けた瞬間に、ひゅんっと鼻に抜けてきてすっかり冬を感じてしまう。
そんななかでも春の訪れを教えてくれる香りというのは、他のどの季節よりもわかりやすいのではないかと思うのだ。
暖かくてどことなく花の甘い香りがそよそよと髪をゆらして…そんな優しい風が、春が来たよと教えてくれる「春風」なのかなと思っている。
おこもりが捗る冬とは違って、外を歩きたくてついうずうずしてしてしまいたくなったら春が始まる。
ずっと勘違いしたままでいた言葉っていくつかあると思うのだけど、わたしにとっては「春一番」がそれのひとつだ。
春の暖かい日に優しく吹くから「春一番」かとずっと思ってしまっていた。春一番とか言うくせに実際はずいぶん冬の寒い時期に来るもんだな、なんて思っていたけど、大きな間違いだと知ったのはいつのことだろう。
今の感覚でいう春に吹くものだと思っているから違う感覚を覚えるのであって、旧暦に例えると間違いではないのだ。
立春から春分までの間に、日本海の低気圧に向けて吹く強い初めての南風。
なぜなら立春は今日から始まるから。
旧暦に使われていた言葉が今も残っていて、それが現代ではいまいち伝わりきっていないもの、というのもたくさんあると思う。
これから少しづつ知っていくなかで「へえ」と思うものがあればこちらも合わせて紹介しつつ、自分の語彙力も増やしていきたいな。
七十二候をおいかけて
春になったら、ぽかぽかあったかくて優しい香りのする空の下を満開の桜を見上げながらお散歩したくありませんか?
夏になったら太陽がカンカンに照っている地面をふうふう言いながら歩いて、冷たくて甘いアイスを「溶けちゃう!」って笑いながら食べることがすき。
秋になったら、赤や黄色に鮮やかに色づいた紅葉を綺麗だねえって言いながら眺めて、さつまいもとかかぼちゃのお菓子をたくさん買い込んで、飽きれられるまでの恒例行事もしたい。
今は冬で寒いけど、雪がしんしん積もっているなかであたたかいおうちにこもって、こたつに潜り込んでゆっくりおしゃべりするのもいつもより距離が近く感じられて嬉しくなっちゃう。
「春」「夏」「秋」「冬」
季節を感じながら生活することって、日本で暮らしていると、つい当たり前のことのように感じてしまうけど、もしかしたらとってもわくわくすることかもしれません。
夏は暑い、冬は寒いから嫌いだという人もたくさんいるけれど、それぞれの季節にしかできないことをちょっとずつ味わっていくことが出来たら、毎日が今よりもほんの少し楽しくなるのではないでしょうか?
とは言っても一年間は365日もあります。
それをたったの4区分でしか分けられていないのに、違いを満喫しようにもなんだか大雑把になってしまうかも…なんてちょっと不安になりますよね。
そんなわけで、四季よりももっともっと細かく分けられている「二十四節季」。さらに分けられた「七十二侯」について詳しく調べてみることにしました。
◆季節の分けかた
そもそも季節というのは一体どのようにして分けられているのでしょうか?
現在日本で使われている暦というのは「新暦」というものになります。
これは太陽が地球を一周する時間を365日に分けたもので「太陽暦」とも呼ばれているものです。
しかし、明治時代まで日本で使われていた暦というのは、「太陽太陰暦」といって、太陽歴と月に満ち欠けで一か月を判断していた「太陰暦」とが混ざったものを使用しています。
これが今でいう「旧暦」にあたるものです。
なので、新暦と旧暦では季節や月日の感覚が異なってくるのです。
日本の四季は大体3か月ごとに変わりますが、旧暦では一年の始まりに新しい年が始まります。
つまり、
【旧暦】
春…1月、2月、3月
夏…4月、5月、6月
秋…7月、8月、9月
冬…10月、11月、12月
ということになります。
年賀状などに「迎春」とか「新春」と書くのはこういったことがあるからなんですね。
◆二十四節季と七十二侯ってなに?
では上記でもふれた「二十四節季」と「七十二侯」というのは何なのでしょうか。
これは一年を4つに分けた「四季」のほかに24等分した季節のことになります。
春分、夏至、秋分、冬至というのは祝日にもなっていたり、と聞いたことがあるかたもたくさんいらっしゃると思います。
これに、「四季」のそれぞれの始まりを表す立春、立夏、立秋、立冬とそれぞれの季節のなかで重要なポイントとなる日をいれて24等分され最後に「大寒」で締めくくり一年間となります。
これが「二十四節季」です。
さらにそれをもっと細かく、季節ごとに出来事や自然現象をあらわしたものを「七十二侯」と言います。
「四季」のなかに「二十四節季」がありさらにその中に「七十二侯」があります。
***
さて、3日後の2月4日は旧暦でいうとお正月にあたります。
春の始まりであり、一年の始まりですね。
わたしは2018年、この「七十二侯」に注目して日々を過ごしてみたいなあなんて思っています。
七十二侯の節目ごとに季節の事柄を知って、ゆっくりといろいろなものを見つめて過ごしてみたら、いまはまだ気付けていないいろいろなことにも目を配ることが出来るようになるんじゃないかなってどきどきしてます。
七十二候ごとの項目についてあれこれ思うことを書き連ねていってみようかなあ、なんて思っています。
一年間見守ってくれたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。